3月10日 – 今日は何の日?

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『東京大空襲』で失われた10万人の命

1945年(昭和20年)3月10日は、東京大空襲で約10万人の尊い命が失われた日です。

3月10日未明の東京下町 (したまち)地区に対する爆撃を中心とする、アメリカ軍の大量無差別の航空爆撃作戦は、沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶ太平洋戦争中の日本における大戦災となり、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大となりました。

 

本格的な本土空襲は1944年夏にアメリカ軍のマリアナ諸島占領によって始まりました。日本本土がアメリカ軍の新鋭長距離超重爆撃機B-29の爆撃圏に入ったからです。アメリカ側は民間無差別攻撃によって日本国民の戦意をくじこうと、大都市に対する焼夷弾 (しょういだん)爆撃を計画しました。

 

下町地区が狙われた理由は?

B-29は1944年11月24日、初めて東京を本格的に爆撃、同月29日には最初の夜間焼夷弾攻撃が行われ、以後、翌年にかけて敗戦の日まで連日のように9か月に及ぶ空襲が続きました。

 

しかし、3月10日の東京大空襲は、今の墨田・江東・台東区などの下町地区を対象として午前0から約2時間にわたり300機以上のB29が飛来して、制御投下弾量は38万1300発、1,665トン、すべてが焼夷弾という集中的な空襲となりました。

 

この空襲は超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲で、その目的は木造家屋が多数密集する下町に散在する町工場もろとも焼き払うことでした。アメリカ軍は日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと下町を狙った理由としていました。

東京大空襲

木造家屋を焼き払うために開発された焼夷弾(しょういだん)

「焼夷弾は爆弾の一種で、中に油あぶらが入っており、地面に落ちると燃えて周り一帯を焼きつくします。木造の家が多い日本の町を焼き払うため、爆発力の大きな火薬ではなく、よく燃える油をたくさん詰めたこのような爆弾が開発されました。


下図のように、大型の焼夷弾「E46集束焼夷弾」の中には38発の筒状の「M69焼夷弾」が入っていて、尾のリボンに火がつき、地上に降り注ぎました。
そして「M69焼夷弾」は屋根を突き破って天井裏で横倒しになり、爆発し、着火したナパーム剤(ガソリンに増粘剤増粘剤を添加し、ゼリー状にしたもの)が撒き散らされ、大火災となるように設計されていました。

焼夷弾

日本本土に対する空襲作戦は、綿密な地勢調査と歴史事例の研究を踏まえて立案されていました。江戸の大火や1923年の関東大震災の検証を行い、その結果、木造住宅が密集する日本の大都市は火災に対して特に脆弱であり、焼夷弾による空襲が最も大規模な破壊を最も効果的に与えることができると結論され、まさに『消せない火災』を起こすことを狙った兵器でした。

 


投下された焼夷弾は、避難民でごった返す大通りに降り注ぎ、子供を背負った母親、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死、そのまま黒焦げとなる悲惨な状況がおこりました。

川に逃れても焼夷弾のガソリンなどの油により水面が引火し、さながら「燃える川」と化し、また冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川・荒川放水路等は焼死・凍死・溺死者で川面があふれました。

単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大

当時の警視庁の調査での被害数は

死亡:83,793人負傷者:40,918人/被災者:1,008,005人/被災家屋:268,358戸

しかし、早期に遺体が引き取られた者や行方不明者が数万人規模で存在しており、死者約8万-10万、負傷4万-11万名と言われており、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大のものとなりました。

 

東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルが焼失しました。爆撃による火災の煙は高度1万5000メートルの成層圏にまで達し、秒速100メートル以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、火山の大噴火を彷彿とさせたとのことです。

 

アメリカ軍はこの後、その後も3月11日、B-29の310機で名古屋(名古屋大空襲)、3月13日、295機で大阪(大阪大空襲)、3月16日、331機で神戸(神戸大空襲)、3月18日、310機で再度名古屋を東京大空襲と同様に、夜間低空でのM69焼夷弾による無差別爆撃を行いました。さらに4月13日東京山手 (やまのて)地区、15日東京・横浜・川崎と大都市への夜間空襲を続け、5月末の空襲ともあわせ、東京の市街地の50.8%が焼失しました。その後、空襲は地方の中小都市へと移り、最後の空襲は1945年8月15日午前1時、東京西多摩郡に対して行われました。

補償問題と戦争犯罪問題

旧軍人・軍属が国家補償を受けているのに対して国家総動員法によって動員された民間人は補償が行われていないことを理由に、2007年3月9日に「東京空襲犠牲者遺族会」の被災者・犠牲者の遺族112人(平均年齢74歳)は、日本政府に対し、謝罪および総額12億3,200万円の損害賠償を求めて東京地方裁判所に集団提訴を行いました。(経過についてはWikipedia


空襲は、戦争における建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃だが、「東京大空襲」は東京そのものの殲滅を目的とする無差別爆撃で多数の非戦闘員たる民間人が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強く、2007年の東京大空襲訴訟でも無差別攻撃はハーグ陸戦条約3条違反という主張がなされています。

しかし、日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄しているのです。

2013年5月7日、第2次安倍内閣は東京大空襲についての答弁書を閣議決定しましたが、答弁書では「国際法の根底にある基本思想の一つたる人道主義に合致しない」点を強調する一方、「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れない」とも指摘し、アメリカ合衆国への直接的な批判は事実上避けています。

(詳細はWikipedia

平和に慣れ親しんでしまった日本人は戦後のGHQの教育施策もあり、「東京大空襲」「広島・長崎の原爆投下」という国際法を超えた非人道的な行為に対して、直接的な被害がなければ、すでに意識の外にあるかもしれません。

「東京大空襲」は決して忘れ去ってはいけない歴史的な事実であることの一つであることを、この日に思います。

 

yahooのアーカイブ 未来に残す 戦争の記憶(東京大空襲)

 

記念日・行事・お祭り

東京都平和の日
1945年のこの日の東京大空襲にちなみ、東京都が1990年に制定。
農山漁村婦人の日
農林水産省婦人・生活課が1988年(昭和63年)に制定。各地域にある婦人だけの休息日が農閑期の10日であることが多かったことから。
佐渡の日
佐渡観光協会が1998年に制定。「さ(3)ど(10)」の語呂合せ。
名古屋コーチンの日
地鶏・名古屋コーチンが、1905(明治38)年3月10日、日本家禽協会から国産実用品種第1号として認定されたことから。
 

歴史上の出来事

2019年(平成31年)
 スキージャンプ・ワールドカップ2018/19で、小林陵侑が総合優勝。
2017年(平成29年)
東京メトロ銀座線01系が営業運転終了。
2010年(平成22年)
鶴岡八幡宮の「公暁の隠れ銀杏」と呼ばれるイチョウが強風により倒壊。
2009年(平成21年)
日経平均株価が終値ベースでバブル崩壊後の最安値7054円98銭を記録。
2006年(平成18年)
全日本空輸からボーイング747SR型機が全機退役。
2005年(平成17年)
島根県議会が、2月22日を「竹島の日」とする条例案を可決。
2001年(平成13年)
東京都調布市に東京スタジアムが開業。
2000年(平成12年)
東海道・山陽新幹線食堂車が廃止される。
1997年(平成9年)
フジテレビが東京都新宿区河田町から港区台場へ移転し、本放送開始。
1985年(昭和60年)
青函トンネル本坑が貫通。
1981年(昭和56年)
横綱・輪島が現役引退。
1974年(昭和49年)
ルバング島に残留していた陸軍少尉の小野田寛郎が救出される
1965年(昭和40年)
気象庁が富士山山頂で富士山レーダーを用いた観測を開始。
1960年(昭和35年)
昭和天皇の五女清宮貴子内親王島津久永と結婚。
1965年(昭和40年)
福岡県小倉で「丸和フードセンター」開店。(日本初のスーパーマーケット)
1954年(昭和29年)
島田事件発生。(静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人、死体遺棄事件、1989年の再審で無罪の冤罪事件)
1952年(昭和27年)
北海道初の民間放送・北海道放送(HBC)ラジオ開局。
1947年(昭和22年)
全国労働組合連絡協議会(全労連)結成。
1945年(昭和20年)
第二次世界大戦日本本土空襲東京大空襲 (死者数が10万人以上、罹災者は100万人を超えた)
1905年(明治38年)
名古屋コーチンが日本家禽協会によって国内初の実用鶏種として認定。
1900年(明治33年)
治安警察法公布。(日清戦争後に高まりを見せ、先鋭化しつつあった労働運動を取り締まる為に制定)
1876年(明治9年)
グラハム・ベル電話による会話に成功。
1872年(明治5年)
日本で最初のプロテスタント教会「横浜海岸教会」が設立。
1846年(弘化3年2月13日)
孝明天皇が第121代天皇に即位。

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