5月19日 – 今日は何の日?

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「ボクシングの日」とは?

5月19日は「ボクシングの日」です。 これは、日本プロボクシング協会が、2010年(平成22年)に 認定しました。 1952年5月19日に後楽園球場(現後楽園ホール)で開催された世界フライ級タイトルマッチで、プロボクサーの白井義男が優勝。 日本人ではじめて世界チャンピオンとなったことが、5月19日に制定された由来となります。

白井義男と米国人科学者との出会い

1945年に日本が敗戦し、復興に向けて歩み出す中、1948年夏には東京の日拳ホールで多くのボクサーがチャンピオンを目指して練習していた。

その中には、かつて注目を集めたものの座骨神経痛に悩まされ、引退を考えていた24歳の白井義男もいた。しかし、白井を見守っていた初老の外国人、アルビン・カーンとの運命的な出会いが訪れる。

カーンはGHQに勤務する科学者であり、ボクシングの経験はなかったが、スポーツでのタイミングの重要性を研究していた。カーンは、「打たせずに打つ」ボクシングを追求していた。そこで、白井のナチュラルタイミングで打つ才能を見出し、「世界をつかめるように面倒を見る」と声をかける。

当時、ラッシュ戦法を主流とするピストン堀口の攻撃力が注目されていたが、カーンはそうした攻撃に対して違うスタイルを模索していた。そのため、白井のようにスタイルを実現してくれるボクサーを探していたのである。

カーンは、通訳を連れて何度もジムを訪れ、その熱心さが白井の心を動かし、コンビを組むことになった。その指導法は徹底しており、まず白井の腰痛を治すことに取り組んだ。当時の日本は食料が不足していたが、カーンは米軍食堂からホットドッグやハンバーグ、時にはステーキを運んでくれた。これによって、白井の体力はみるみる回復し、腰痛も急速に消えていった。

 

そして、カーンは白井のナチュラルタイミングで打つボクシングを教え続け、白井はこのスタイルを確立させた。このようにして、白井義男とアルビン・カーンの運命的な出会いが、日本のボクシング史を塗り替えることになった。カーンは自らの信念を貫いて指導を続け、白井もその指導に応え、多くのファンを魅了したのである。

ボクシングにおいてジャブは非常に重要な基本技術であることを説き、白井選手はその重要性を熟知し、毎日のトレーニングで2時間もジャブの練習に費やした。そうした独自のテクニックは、選手としての白井選手をよみがえらせることとなった。

そして、1949年、白井選手は実戦に出場した。花田陽一郎選手との試合では、「今牛若丸」と呼ばれるほどの実力者を相手にして日本フライ級王座を奪取。その勢いを持ってピストン堀口選手の弟である堀口宏選手との試合でも同バンタム級タイトルを獲得した。この2つの階級制覇によって、白井選手は非常に高い達成感を得た。

夢の挑戦であった「世界フライ級王座」

カーンは苦境を脱した白井義男のその後の展望に注目していた。それは、米国人ボクサーのダド・マリノが持つ世界フライ級王座に挑戦することであった。

当時の日本には世界戦を開催する経験がなかったため、この挑戦は夢のような話であったが、1951年5月、ノンタイトル戦としてマリノを日本に招くことに成功した。

この試合では小差の判定で敗れたが、12月には王者の地元、ハワイ・ホノルルでの再戦で鮮やかな7回TKOで勝利を収め、一気に世界挑戦の機運が高まった。日本は国際的な信用を得るため、コミッションを設立し、1952年5月19日、後楽園球場で念願の大舞台が実現した。

敗戦国の日本を元気づけるには?

カーンは白井にその時、こう語りかけたという。「自分のために戦うと思うな。敗戦で自信と希望を失った日本のために戦うのだ。今の日本で世界に対抗できるのはスポーツしかないだろう。勝つことで日本に勇気を取り戻そう」。白井はそれが不思議だったという。なぜ米国人が日本人の私にそう励ますのか。白井はカーンの語りかけによって必勝を誓った。試合前の予想では、白井が有利だとされた。マリノはピークを過ぎた感があり、ホノルルでの勝利もその証拠だった。

しかし、4万人を越す超満員の中、試合が始まり、白井のスピードが支配した。そして、7回には大ピンチに陥る。マリノ得意の左フックを浴びて、白井は場外を見ながら立ったまま脳震盪を起こしてしまった。ゴングに救われたものの、彼はもうろうとした意識の中であった。

そのとき、カーンは絶叫した。「ウェークアップ(目を覚ませ)、ヨシオ」―。

これによって白井は正気を取り戻し、8回以降、スタミナの切れたマリノを攻め続け、判定で快挙を達成することができた。その一言が新たな歴史を刻んだといっても決して過言ではない。リング上は興奮に包まれ、カーンはこうつぶやいた。「偶然に出会った若者が今、ダイヤモンドのように輝いている」。

カーンはパワーではなく、スピードとテクニックによって世界的な名声を得た、科学的ボクシングの真髄を極めた名選手であった。彼は情熱的であり、その情熱は類まれであった。

白井は世界タイトルを4度防衛した後、1954年11月にパスカル・ペレス(アルゼンチン)に判定負けし、王座を失った。翌年の5月のリターンマッチで、5回KO負けを喫し、引退を決意した。

白井が「博士、これまでありがとうございました」と感謝の気持ちを伝えると、カーンは涙ながらにこう言った。「お礼を言いたいのは私の方だ。君のおかげで私は生きがいを見つけることができた。素晴らしい人生を送ることができた」と。

引退後もカーンは白井と共に暮らしていた。彼には、身寄りがなく、独身であったため、自然にこのような状況が生まれたのである。2人は、大切でかけがえのない友人であり、家族だった。カーンは頭脳明晰かつ穏やかな性格であったが、頑固な性格も併せ持っていた。なぜか、日本語を覚えようとしなかった。彼が話す唯一の日本語は、「ダメ」の一言だけであった。

彼は、常に妥協しない一徹な性格であった。「ダメ」という言葉以外に、日本語が話せなかった彼であったが、彼自身の言葉と行動によって、日本中に感動と勇気を与えることとなった。

彼は戦勝国の米国人でありながら、なぜ自らの故郷を離れ、日本や白井選手を救おうとしたのか。その理由は謎のままですが、間違いないことは、彼の人生哲学が敗戦後の日本を元気づけ、励まし、支えたということです。

 歴史上の出来事

 記念日・行事・お祭り

 本日の誕生日

5月19日には、ピート・タウンゼント(ミュージシャン)、トム・スコット(サクソフォーン奏者)、四方晴美(女優)、澤部佑(お笑いタレント)、神木隆之介(俳優)が誕生しています。(敬称:略)