1888年(明治21年)のこの日、東京・上野(下谷上野西黒門町)に日本初の本格的なコーヒー喫茶店「可否茶館(かひいさかん)」が開店。

明治16年(1883年)には鹿鳴館(ろくめいかん)が建設され、いわゆる「鹿鳴館時代」が始まったことで、欧化主義がもてはやされるようになり、珈琲(コーヒー)は、ハイカラな飲み物として、特権階級の人々の間で人気がありました。
その「可否茶館」の創始者は鄭永慶(ていえいけい)という人物で、上流階級が集まる鹿鳴館に対して庶民の共通のサロン、知識の広場の設立を理念としました。それは渡航経験で庶民が自由に気楽に交流できる場としてのコーヒーハウスをアメリカで実際に見てきたからでした。
そのため「可否茶館」は西洋館二階建ての中に、ビリヤード、トランプ、碁、将棋と娯楽だけではなく、更衣室、化粧室、シャワー室まで完備。さらに国内外の新聞や雑誌を置き、図書館を目指して各種の書籍や書画を自由に閲覧できるようにしてありました。
しかし、「可否茶館」は、3年もたずに閉店してしまいました。原因は価格で、もりそば1杯が8厘から1銭の時代にコーヒーが1銭5厘、牛乳入りコーヒーが2銭で、やはり当時の庶民にとっては高額でした。(現在では、スタバと立ち食いそばの料金は、逆転していますね。)
その後、1910年代の明治時代末から大正時代にかけて「カフェー」と呼ばれる喫茶店が全国的に普及し、日本において喫茶店ブームとなり、1950年代後半には音楽も楽しむことができる「ジャズ喫茶」「歌声喫茶」「名曲喫茶」などが流行しました。