カノッサの屈辱(くつじょく)
ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝との聖職叙任権を巡る対立から起こり、1077年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が破門を恐れてローマ教皇グレゴリウス7世に許しを請うた事件。
ローマ教皇のグレゴリウス7世が1075年、改革の一環として世俗の権力による聖職者叙任権を否定したことに対し、神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ4世は、オットー大帝以来のドイツの帝国教会政策(皇帝が聖職者を任命する体制)を維持するために反対し、グレゴリウス7世の教皇の廃位を迫った。それに対し教皇グレゴリウス7世は教会会議を開催してハインリヒ4世の破門を決定した。
破門が実行されると帝国内の封建諸侯に対する統制力を失うことになるので、その窮地を脱するため、ハインリヒ4世はグレゴリウス7世に面会するため、厳冬のアルプスを超え、1077年の正月、おりから教皇の滞在するカノッサ城を訪ねた。グレゴリウス7世は会おうとしなかったが、カノッサ城主トスカナ伯マティルダやクリュニー修道院長ユーグのとりなしで会うこととなった。この間、ハインリヒ4世は3日間、雪の中にわずかな修道衣のみの素足で立ちつくし、ようやく面会に応じたグレゴリウスは、皇帝の聖職叙任権の否定を認めさせた上で破門を解いた。
これが皇帝ハインリヒ4世にとっての「カノッサの屈辱」と言われる事件だが、これで教皇権が確立したわけではなかった。武力という実力を持つ皇帝側の反撃を受け、ローマを追われ、皇帝が対立教皇を建てたため教会は分裂することとなり、両者の権力闘争は1122年のヴォルムス協約で妥協が成立するまで続いくこととなる。
出典:Wikipedia
●一無、二少、三多の日…一般社団法人 日本生活習慣病予防協会が2016(平成28)年に制定。同協会が提唱する「一無、二少、三多」(いちむにしょうさんた)をより多くの人に実践してもらい健康長寿に役立ててもらうのが目的。「一無」は禁煙、「二少」は少食と少酒、「三多」は多動(体を多く動かす)と多休(しっかり休養する)と多接(多くの人、事、物に接する生活)を表す。日付は1と23で「一無、二少、三多」の一二三から。