【要約】日本への期待はどれほど大きいのか~負けるな高市日本~【門田隆将チャンネル#0055】

【要約】日本への期待はどれほど大きいのか~負けるな高市日本~【門田隆将チャンネル#0055】
『門田隆将チャンネル」は、作家・ジャーナリストの門田隆将さんが日本の政治経済世界情勢などの側面や裏側をジャーナリストの視点で切り込むYouTubeチャンネルです。

『門田隆将チャンネル#0055』を要約

ベトナム出張と全体の所感

・ベトナム社会主義共和国から無事帰国したことを報告し、この動画では現地取材の総括を行うと説明
・今回の旅では「日本を外から見る」ことを含め、複数の目的があり、そのかなりの部分を達成できたと実感
・現地の人々と接する中で、日本への期待・日本を尊重する気持ちが非常に強いことを肌で感じたと述べる

ベトナムの人口構成と高度成長期の日本との類似

・ベトナムの人口は1億人を超え、約1億1百万人規模になっていると説明
・平均年齢は33歳と若く、街に活気があふれている様子を強調
・年齢構成や街の雰囲気が、日本の昭和40〜50年代を思わせると感じたと回顧
・昭和40〜50年代の日本も、第二次世界大戦終結から20〜30年後で、高度成長の真っ只中にあったと重ね合わせる
・ベトナム戦争終結(1975年)から30〜40年が経過した現在、同様の「戦後成長期」にあり、今後さらに発展する国だと評価

ハノイの北ベトナム軍司令部地下施設

・ハノイにある北ベトナム軍の司令部跡を訪問し、地下施設に入ったと説明
・地上から20〜30メートルほど下まで階段で降り、その奥に作戦会議室が設けられていたと紹介
・司令部は首都ハノイの中心部に位置しており、当時の指揮中枢がどのような環境で戦争を指揮していたかを実感したと述べる

クチトンネル地下要塞の構造と「モグラ作戦」

・ホーチミン市(旧サイゴン)から約55km離れた場所にある「クチトンネル」を視察
・総延長約250〜255kmに及ぶ地下道網で、実質的な地下基地・地下要塞であると説明
・入口は人の肩がやっと入るほどの小さな穴で、密林の草むらの中に隠されており、蓋を閉じれば外からはほぼ判別不能
・中に入る際は腰をかがめ、這うようにして進む必要があり、作戦区域以外の生活空間だけが少し広くなっていると紹介
・「掘って掘って作り上げた“モグラ作戦”」とも言える構造で、米軍を大いに悩ませた要因になったと解説

密林戦の過酷さと米兵のPTSD

・クチ周辺には、米兵を傷つけるための落とし穴や竹槍トラップなど、実物展示も多数あったと報告
・密林の中で繰り広げられた過酷なゲリラ戦を目の当たりにし、「戦争の悲惨さ」を改めて実感
・帰国後にPTSDなど精神疾患に苦しんだ米兵を描いた映画が多い理由が、現場を見てよく理解できたと述べる

サイゴン陥落ルートと米大使館跡地

・高校生の頃、ニュース映像で見たサイゴン陥落を「現場」で辿ったと説明
・北ベトナム軍がアメリカ大使館へ迫っていった道筋を実際に歩き、「ここが国家崩壊の舞台か」と感慨を抱いた
・命知らずのベトコンがアメリカ大使館に迫り、国家が崩壊していく姿が象徴されていたと振り返る
・現在、その場所には大使館建物はなく、領事業務は地下施設で行われていると現状も紹介
・上に建物を建てないのは、テロ対策など安全保障上の配慮だと説明し、世界の現実の厳しさを感じたと語る

1968年テト攻勢と米大使館襲撃の記念碑

・1968年のテト攻勢(旧正月に合わせた奇襲作戦)で、世界の空気が大きく変わったと解説
・当時、誰も北ベトナムが勝つとは考えておらず、南ベトナム・米軍側が勝つと信じられていた時代だったと振り返る
・その中で、15人のベトコンが夜中に米大使館へ突入し、約6時間にわたり激しい銃撃戦を展開し全員戦死
・現在、その場所には記念碑が建てられており、門田氏自身もその前で写真撮影を行ったと報告
・大使館がハノイ側に移ったため、そこは領事館業務のみを行う地下施設となっており、建物自体は存在しない状況だと述べる

旧南ベトナム大統領府と展示された戦車

・旧南ベトナム大統領府(現在の統一会堂)も訪問し、当時を象徴する場所として紹介
・北ベトナム軍および南ベトナム人民解放軍が突入してきた戦車が、庭にそのまま展示されていると説明
・陥落時、南ベトナム軍は無駄な犠牲を避けるため、ほとんど抵抗せずに大統領府への突入を許したと解説
・「これが国家崩壊というものだ」と、前日の動画で語った内容を改めて確認する旅になったと述べる

ライダイハンの証言と生活実態

・韓国軍が現地女性との間に残した子ども「ライダイハン」についても現地で取材
・人数は5千人〜3万人とも言われ、正確な数字すら把握されていないと指摘
・中部地域では約32万人の住民が被害の中心になったとも言われていると紹介
・1971年生まれのベトナム人へのインタビューでは、「自分のクラスに2人ライダイハンがいた」との証言を得た
・大学進学には親の社会的基盤や経済力が重要で、そうした家庭環境の差から大学進学は難しかったと説明
・しかし、クラス内でのいじめや露骨な差別はなく、一緒にビリヤードやピクニックに行く「普通の友達」として接していたと聞き、門田氏は少し安心したと述べる
・日本では「ライダイハンは激しく差別され悲惨な人生を強いられた」という固定観念が強いが、現地の証言はより複雑で、多面的だったと指摘

韓国軍部隊の残虐行為とその記憶

・中部ベトナムには「虎・馬・竜」の名前を持つ韓国軍師団(虎師団、馬軍団、竜師団)が駐留していたと説明
・これらの部隊は「一人でも多くベトナム人を殺せば称賛される」という風潮の中で残虐行為を繰り返したとの証言を紹介
・悲惨な事件は多数あり、被害者側の恨みは深いものがあるとしつつも、ベトナム政府はそれを大々的な政治カードとしては扱っていないと指摘
・一方、日本人の視点では、韓国が慰安婦問題で日本を激しく非難する一方で、ベトナムでの自らの行為についてはほとんど語らない「二重基準」が気になると述べる

中越戦争・中国侵略史と歴史改ざんへの反発

・1979年の中越戦争は1ヶ月で終わったわけではなく、国境砲戦を含めれば1989年まで約10年続いたと解説
・現地で話を聞くと、中国による歴史上の侵略は繰り返されており、ベトナム人の対中警戒心は非常に強いと報告
・その一方で、中国側は「中国は侵略したことがない」と主張しており、ベトナム人はこれを聞いて笑い転げていたと紹介
・中国が平気で歴史を改ざんする姿勢に対し、「日本に対して主張されている30万人虐殺なども同じ構図だ」と暗に示唆
・当時の国民党政権が何も言っていなかった話を、1949年成立の中華人民共和国が後になって持ち出している矛盾を指摘し、歴史認識の問題性を強調

南沙(スプラトリー)での1988年海戦と対中警戒

・1988年、南シナ海のスプラトリー諸島周辺で起きた海戦では、ベトナム兵74人が中国軍との戦闘で死亡したと説明
・この海戦の記憶も、ベトナム人の間で決して風化しておらず、中国への強い警戒心の源泉になっていると述べる
・「アメリカを倒した国」としての自負を持つベトナム人は、中国の脅威を非常に現実的に捉えていると評価

サンフランシスコ平和条約「無効」論への危機感

・中国が最近、「サンフランシスコ平和条約は無効だ」と言い出していることを問題視
・同条約が無効なら、台湾・マリアナ・パラオなど、日本が条約上手放した地域はどうなるのかと論理破綻を指摘
・そうした中国のプロパガンダが展開される中、日本の経団連や日中友好議員連盟が訪中を望んでいる現状を「利用されるだけ」と厳しく批判
・「国を売ってまで利益や利権を得ようとする人々は、徹底的に糾弾すべきだ」と訴える

ベトナム人が日本に語った「中国を信用するな」という警告

・現地の人々から、繰り返し「中国を信用してはいけない」と忠告されたと紹介
・日本人は「すぐ騙される」と心配されている節があり、ベトナム側の日本への“親切な警告”だと受け止めたと述べる
・日本人自身は平和ボケしている面があり、危機感や安全保障への認識の低さを自戒的に語る

東南アジアにおける日本への期待と高市政権への評価

・ホーチミンなど在留邦人社会のベテランとも話し、東南アジア全体で日本への期待が非常に大きいと再確認
・日本は「アジアの自由・人権・民主主義の旗手」であり、中国に対して負けてはならない国だと多くの人が考えていると紹介
・現在の高市政権は、中国と毅然と対峙できる政権だと現地からも評価されていると述べる
・そうした期待を受け、日本もついに「生まれ変わるべき時期」に来たと実感しながら帰国したと動画を締めくくる


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