6月7日 – 今日は何の日?
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出典:ネガポジ辞典(主婦の友社)
ピックアップ TODAY!
「多摩スピードウェイ」とは?
1936年6月7日、多摩川スピードウェイにて第1回全国自動車競走大会が開催されました。
多摩川スピードウェイ(たまがわスピードウェイ)は、神奈川県川崎市の多摩川河川敷に存在した日本及びアジア初の常設サーキットで、「オリンピアスピードウェイ」とも呼ばれました。
「多摩スピードウェイ」開業まで
日本で自動車の黎明期である1910年代から、富裕層や外国人によって輸入自動車でのレースが行われるようになりました。その後、1920年代になり白楊社などの国産自動車メーカーが複数設立され、レース場所を探していました。
しかし、当時はパーマネント(常設)サーキットがまだ存在していなかったため、代々木練兵場や立川飛行場、目黒競馬場や洲崎埋立地で大会を開催する必要がありました。
この問題を解決するため、モータースポーツ活動を行っていた藤本軍次がパーマネントサーキットの建設を企画し、そして報知新聞社と一緒に「日本スピードウェイ協会」を設立し、サーキット用地を見つけるために奔走しました。
その後、東急電鉄の前身である東京横浜電鉄がオリンピア球場跡地(異論あり)を提供し、同社が100,000円の総工費のうち70,000円を出資しました。また、三菱グループの株主の飯田正美も3万円を寄付して、1936年5月9日に日本及びアジア初のパーマネントサーキットとして開業しました。(参考:【昭和10年の物価】大卒初任給90円、米10kg2円50銭、ガソリン1リットル12銭)
1周1,200メートル、20メートル幅のダートオーバルトラックは左回りコースで、多摩川の堤防土手を利用したコンクリートでできたメインスタンドを備えていました。メインスタンドの収容人数は数千人程度で、サーキット敷地内の最大収容人数は3万人とされています。
1937年4月発行の「東横・目蒲・玉川電車 沿線案内」には、「面積4万坪、コース1哩、3万人を収容する大スタンド等施設完備せる東洋一の自動車大競走場」とされました。
「第1回全国自動車競争大会」は?
1936年6月7日、日本自動車競走倶楽部が主催し、日本初の本格的な自動車レースとなる第1回全国自動車競走大会が開催されました。開会式には大日本帝国陸軍の将官も出席し、多摩川沿いという都心から遠い場所での開催にもかかわらず、1万人以上の観客が集まるなど大きな注目を浴びました。
この大会は、日産自動車の従業員である片山豊が運営に関わり、宣伝や広報の役割を担いました。
参加車両は、当時横浜市の工場で生産されていたフォードや、三井高公男爵が輸入したブガッティやベントレー、さらにはカーチスの航空機エンジンを搭載した改造車や、日産自動車など、様々な外国車や国産車が参戦しました。
このレースには、後に本田技研工業を創設する本田宗一郎も自身が製作した「浜松号」(エントラント名は「ハママツ」)で参加しましたが、他の車両との接触事故により横転し、本田自身も骨折や視力低下など重傷を負ってしまいました。
国産自動車部門で優勝したのは、当時三井物産の傘下にあったオオタ自動車工業が手作業で組み上げたレース専用マシン「オオタ号」でした。なお、レースを観戦していた日産自動車の鮎川義介社長は敗北に激怒し、社員に雪辱を果たすよう命じ、3ヶ月後の第2回大会に臨むこととなりました。
「カーレース」その役割は?
カーレースにはいくつかの役割があります。スポーツとしてのエンターテイメントとして、 カーレースは観客にとってエキサイティングなスポーツイベントとしての役割を果たします。高速で競い合う車両やドライバーの技術、スリル満点の追い抜きなど、観客に興奮や感動を与える要素があります。
しかし、技術の進歩と革新の場というのが、日本の自動車産業の発展に寄与したことが一番かもしれません。 カーレースは自動車メーカーやチームにとって、技術の競争の場でもあります。レースでの勝利や優れたパフォーマンスを追求するために、革新的な技術やエンジニアリングの進歩が生まれます。これらの進歩は、市販車への応用や自動車産業全体の発展にも寄与します。公道では、検証できない限界に挑戦するステージとしてのサーキットが必要な理由です。
歴史上の出来事
- 671年(天智天皇10年4月25日) - 日本で、漏刻と鐘鼓による時報(水時計)を開始。
- 871年(貞観13年5月16日) - 鳥海山が噴火。
- 923年(延長元年閏4月20日) - 903年に大宰府で亡くなった菅原道真を右大臣に復し正二位を贈る。
- 1576年(天正4年5月11日) - 安土城天主(天守)が完成。
- 1868年(明治元年閏4月17日) - 明治政府が、長崎・浦上で発見されたキリシタンを流罪にする。(浦上四番崩れ)
- 1884年 - 商標条例制定。日本で商標の制度が始まる。
- 1913年 - 北米大陸最高峰のマッキンリーに、アメリカの宣教師のスタックらが初登頂。
- 1920年 - 名古屋電気鉄道の車庫が全焼。91両が焼失。
- 1921年 - 九州全域で豪雨。大分県内だけでも死者約200人。
- 1924年 - 第二次護憲運動により清浦奎吾内閣が総辞職。
- 1936年 - 多摩川スピードウェイにて第1回全国自動車競走大会が開催。
- 1939年 - 満蒙開拓青少年義勇軍壮行会が明治神宮外苑競技場にて開催。
- 1941年 - 愛知銀行・名古屋銀行・伊藤銀行が合併し東海銀行(現:三菱UFJ銀行)を設立。
- 1942年 - 第二次世界大戦: ミッドウェー海戦が終結。
- 1951年 - (旧)計量法公布[12]。
- 1951年 - 日本初の信販会社、日本信用販売(後の日本信販、現:三菱UFJニコス)が設立される。
- 1955年 - 日本が関税および貿易に関する一般協定 (GATT) に加盟。
- 1955年 - 東京で第1回日本母親大会が開かれる。
- 1983年 - 東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件。
- 1986年 - 広島東洋カープの衣笠祥雄が日本プロ野球史上初の2,000試合連続出場を達成。
- 2017年 - 日本原子力研究開発機構は、茨城県大洗町にある大洗研究開発センターで5人が被曝した事故で、少なくとも4人が内部被曝し、50代の男性作業員の肺から最大約2万2千ベクレルの放射性物質が検出されたと発表。日本国内最悪の内部被曝事故。
- 2022年 - 横浜DeNAベイスターズの今永昇太が史上85人目のノーヒットノーランを達成。
参考資料:Wikipediaより抜粋
記念日・行事・お祭り
母親大会記念日 | 1955年6月7日に東京都の豊島公会堂で2000人が参加して第1回母親大会が開催されたことから。 |
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緑内障を考える日 | 中途失明の原因として最も多いとされる緑内障について広く考え、一年に一度は緑内障の検診を受けるようにと呼びかけるため、(一社)緑内障フレンド・ネットワークが制定。日付は「りょく(6)ない(7)」(緑内)と読む語呂合わせから。 |
ムダ毛なしの日 | 夏に向けて素肌を出し始める女性に、すべすべの肌を手に入れてほしいとの願いから、レキッドベンキーザー・ジャパン株式会社が制定。日付は「ムダ毛(6)なし(7)」の語呂合わせから。 |
むち打ち治療の日 | 治らないものと考えられていることが多いむち打ち症。しかし、きちんと治療すればほとんどの症状が改善することから、あきらめずに治療しましょうと呼びかける日にと、日付は「む(6)ち打ちをな(7)おそう」と読む語呂合わせから。むち打ち治療協会が制定。日付は「む(6)ち打ちをな(7)おそう」と読む語呂合わせから。 |
本日の誕生日
6月7日には、ポール・ゴーギャン(画家)、トム・ジョーンズ(歌手)、岸部四郎(タレント)、プリンス(ミュージシャン)、小林武史(音楽プロデューサー)、荒木飛呂彦(漫画家)、手塚理美(女優)、カフー(サッカー)、アンナ・クルニコワ(テニス)が誕生しています。(敬称:略)